現実が崩壊する時代の文学 ― アルベルテ・モマン・ノバル『ラ・レアリダ・ディフサ(La realidad difusa)』書評
現代社会において「現実」とは何か。私たちが目にしている世界は、果たして本物なのか。それとも、政治、メディア、テクノロジーが構築した幻想の断片に過ぎないのか――。
スペインの作家**アルベルテ・モマン・ノバル(Alberte Momán Noval)**による2025年の長編小説『ラ・レアリダ・ディフサ(La realidad difusa)』は、この根源的な問いを突きつける衝撃的な作品である。
モマン・ノバルは、ガリシア地方を拠点に活動する現代文学の急先鋒であり、社会の周縁に生きる人々を描き続けてきた作家だ。本作は彼のこれまでの仕事の集大成とも言える。暴力、貧困、欲望、権力、そして「現実」の意味をめぐって展開するこの物語は、21世紀の人間がどのようにして「現実」を失っていったのかを告発する文学的黙示録である。
「現実」をつくる職業 ― 社会批判としての序章
『ラ・レアリダ・ディフサ』の冒頭で、読者はある奇妙な語り手に出会う。彼は「現実をつくる」専門家であり、政治家、企業、軍隊のために「物語」を設計するコンサルタントだ。
「現実を創造するのは難しくない」と彼は言う。この言葉が象徴するのは、情報と感情の操作によって真実が商品化された社会の姿である。選挙も、戦争も、企業のスキャンダルさえも、巧妙に設計された「現実プランニング」によって正当化される。
モマン・ノバルは、このプロローグを通じて現代の情報社会の構造を鋭く描き出す。現実とはもはや客観的なものではなく、**「支配のための物語」**なのだ。
まるでミシェル・フーコーの権力論と、ジャン・ボードリヤールのシミュラークル理論を合成したような世界観。だがモマンは哲学者ではなく小説家として、理論を血肉化し、人間の痛みを通して語る。
堕落する警官 ― 現実を失う人間の肖像
物語の中心人物は、**テルシテス・デ・アグリオ(Tersites de Agrio)**という元警察官だ。彼は警察内部の腐敗を暴こうとして職を失い、やがて社会の底辺へと転落していく。
彼の名前「テルシテス」は、ホメロスの『イーリアス』に登場する醜い兵士に由来し、「真実を語る者は罰せられる」という象徴を背負う。
仕事も家も失ったテルシテスは、街をさまよいながら自らの欲望が他者に操作されていることに気づく。ある日、突然チョコレート入りの菓子パンが食べたくなり、理性を失って店に駆け込む。しかしそれはテレビ広告によって刷り込まれた「他人の欲望」だった――。
このシーンはコミカルでありながら、恐ろしくもある。人間の意志が「外部プログラム」によって支配される世界。まさに自由の崩壊の瞬間である。
モマン・ノバルの筆致は極めて緻密だ。長いセンテンスと繰り返しのリズムが、読者に圧迫感を与える。文章の構造そのものが、テルシテスの混乱を体現しているのだ。読者はいつしか、現実と幻覚の境界を見失う。
老女エトラとの共生 ― 愛と依存の境界
やがてテルシテスは、年金暮らしの老女エトラ(Etra)と暮らし始める。彼女は孤独で優しい女性であり、彼の転落した人生に一時の安らぎを与える存在だ。
二人の関係は母子のようでもあり、恋人のようでもあり、互いの孤独に寄り添う共依存の関係である。だが、この「温かさ」は決して救済にはならない。むしろ、貧困と絶望の中でわずかに残った人間らしさの最後の炎のようなものだ。
モマン・ノバルは、経済的貧困を描くだけでなく、それがどのように感情や倫理の貧困をも生み出すかを精緻に示す。エトラの部屋は、愛と絶望が交錯する小宇宙であり、ここで語られる「日常」は、どんな暴力よりも重い現実を突きつける。
暴力と罪 ― 倫理の崩壊
やがてその均衡は崩れる。ある晩、テルシテスはエトラを暴行する。
この場面は本書の最も痛ましい部分であり、モマン・ノバルの文学的勇気が試されるところでもある。彼は暴力を直接的に描くが、決してセンセーショナルではない。むしろ冷静な筆致によって、読者に倫理的な不快感を与える。
ここで問われるのは「罪」ではなく「原因」だ。テルシテスの暴力は個人的な狂気ではなく、社会的・制度的暴力の反復に過ぎない。彼自身が被害者であり、加害者でもある。この二重性が、モマンの文学をただの社会小説ではなく哲学的実験へと昇華させている。
権力の構造 ― 支配の連鎖
次章では、テルシテスはかつての上司、警察の幹部に呼び出される。彼は恩を売るように見せかけて、テルシテスに屈辱的な取引を迫る。
やがてその「取引」は性的暴力へと変わる。前章の暴行と対照的に、今度は彼自身が被害者となる。ここで明らかになるのは、暴力とは上から下へ一方向に流れるものではなく、社会全体に循環する構造だということだ。
モマン・ノバルは、この「支配の連鎖」を冷酷に描き出す。権力は個人の中に内面化され、被害者が加害者になる。これは単なる物語ではなく、現代社会そのものの写し鏡である。
性と経済 ― 肉体の価値
『ラ・レアリダ・ディフサ』において、セクシュアリティは決してロマンティックなものではない。ここでは性が経済の一部として機能する。
テルシテスは生活のために体を売り、街角やガソリンスタンドで取引を行う。人間の身体が「通貨」と化すこの描写は、まさに資本主義の最終形態を象徴する。
この世界で唯一の救いとして登場するのが、娼婦のペンテシレア(Pentesilea)だ。彼女は経験豊かな女性であり、同時に反抗者でもある。彼女とエトラの友情は、すべてを失った者たちの間に芽生える小さな連帯を示している。
彼女たちの会話の中で引用されるボードリヤールとヴァルター・ベンヤミンの思想――「再生産」「複製」「個の喪失」――は、この物語全体の理論的支柱である。ペンテシレアとエトラは、同質化する群衆の中でなお「固有性」を守ろうとする二つの魂なのだ。
幻想と現実の境界が消える時
物語が進むにつれて、現実と幻想の区別は完全に崩壊する。テルシテスは幻覚に苦しみ、ついに「喋る黒猫」と出会う。この猫は、彼の心の中に侵入した監視プログラムの化身であり、彼を嘲笑しながらこう言う。
「おまえの脳の中にいるだけだ。でも、望めば誰の目にも映るようにできる。」
この一言こそ、『ラ・レアリダ・ディフサ』というタイトルの真意だ。現実はもはや外部にあるのではなく、内部から制御される幻影にすぎない。
テルシテスは最終的に車を暴走させ、事故を起こす。これは物理的な破滅であると同時に、精神の崩壊の象徴でもある。
終章 ― 償いなき赦し
ラストシーンでテルシテスは病院のベッドに横たわる。彼のそばには再びエトラがいる。黒猫が胸の上に座り、彼を見つめる。現実なのか幻なのか、もはや分からない。
エトラは黙って水を差し出す。テルシテスは泣きながらそれを飲み、何かを呟く。その場面は小さく、静かだが、人間性の最後の痕跡を感じさせる。
救済はない。だが、なおも残る「他者への思いやり」こそ、モマン・ノバルが見出す唯一の希望なのだ。
言葉の力 ― 文体と思想
モマン・ノバルの文体は詩的でありながら分析的でもある。長い文が続き、読者の集中を強制する。彼の言葉は装飾ではなく、抵抗の手段だ。
彼の文章には政治的スローガンも、文学的自己満足もない。ただ、「見たものを記録する」という倫理がある。まるで報道記者と詩人が一体化したような文体だ。
スペイン文学の現在地
『ラ・レアリダ・ディフサ』は、現代スペイン文学の中でも特に重要な位置を占める。
ラテンアメリカのフェルナンダ・メルチョル、ポルトガルのジョゼ・サラマーゴ、フランスの
ウエルベック――そうした作家たちと並び立つような、社会的リアリズムと哲学的深度の融合を実現している。
モマン・ノバルが描くのは、もはやスペインだけではない。グローバル資本主義の下で「現実」を失った私たち全員の姿である。
結論 ― 私たちは何を見ているのか
『ラ・レアリダ・ディフサ(La realidad difusa)』は、読みやすい小説ではない。だが、読む価値は絶大だ。
それは現代人が生きる「情報の海」に光を当て、私たちが無意識のうちに受け入れている偽りの現実を暴くからだ。
アルベルテ・モマン・ノバル(Alberte Momán Noval)は、単なる作家ではない。彼は現代社会の「倫理的記録者」であり、言葉によって沈黙を破る証人である。
『ラ・レアリダ・ディフサ』は、私たちに問いかける。――「あなたが信じている現実は、本当にあなた自身のものか?」
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